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法林寺(ほうりんじ)

JR筑前前原駅南の舞岳(現在は笹山)の城主であった劉(後に笠と改名)次郎繁種が
出家、願了と号し、天正2年(1574)2月17日、山の東側(寺浦)に天台宗の庵を結びました。
後に、願了は本願寺と織田信長との10年にわたる大阪石山の陣に小田ヶ浜(西区小田)より門徒数名と共に加わり真宗に帰依しました。開基の願了は「里守さん」として里守神社に祀られ、明治48年頃に老松神社が里守神社の場所に移転したため、その中にその祠があります。願了の子二世玄照は寺浦に本堂を建立しました。
三世玄照(伊豫)は黒田長政の異母弟にあたり、兄志摩は福岡簀ノ子町正法寺の開基となりました。母佐賀子は元高(如水)の愛妾で、生母佐賀子よりの六字尊号(蓮如上人)が寺宝(身代り名号)として今に伝わっています。寺宝については愛妾佐賀子の部屋に黒田元高が予告なしに訪れた際、念仏を禁止していたにも関わらず、「南無阿弥陀」の名号を安置してお念仏を唱えていたために激怒した元高が抜刀し一太刀で佐賀子を絶命させました。放心状態の元高を見た家来が急ぎ部屋に入ると、佐賀子は無事で御名号が代わりに切られていたと伝わりました。また、寛文7年(1667年)5月3日ご本尊をお迎えしました。その本尊は平安末期から鎌倉初期に出現した運慶・快慶に続く慶派の仏師・渡辺康雲の作です。
四世玄入は貞享2年(1685)、黒田藩の宿駅の造営に伴い、寺基を宮本町の代官所隣りに
移設しました。後に、藩より寺田八反七畝を贈られました。
十三世雲渓は博多・春吉の正光寺より入寺しました。藩校の修猷館を終え、龍谷大学の前身である大学林に学び、更に勧学・田丸慶忍師に倶舎2年、博多万行寺の七里恒順和上に宗乗5年を学び師に代わり布教に従事しました。教戒事業も補佐し福岡監獄教誨師及び教務所長を拝命しその後の教誨師活躍の基盤を作りました。刑期満了者の社会復帰を援助する出獄人保護会等の組織を起ち上げ、福岡のみならず新潟県、島根県等に知事等からの依頼を受け派遣されました。
明治33年4月に開校した「福岡仏教中学」の設立に本願寺より準備委員として任じられその設立に協力しました。筑紫女学園創設者水月哲英は義母の里の寺の住職で、修猷館の後輩にあたります。
明治38年より日露戦争の際には本願寺より満州開教師として同年11月20日旅順に派遣されました。その際に、軍より露軍のステッセル将軍の部屋に在りしシャンデリアを拝受しました。
八幡の元照寺より入寺した十四世常信は、布教や本願寺等の役職で不在がちであった寺を支えることに専念し、戦後はコンクリートを加工して境内の敷石を作るなど門徒のお参りし易い寺とするための環境整備を行いました。地域の要請を受け、りんでん保育園を開設し、坊守多仁が園長になりました。多仁は師範学校を出て、現在の法林寺の所にあった尋常小学校の教師を40年近く務めました。国防婦人会の糸島郡の会長も務めました。そのご縁で福岡市早良郡婦人会会長の娘であった松原良子(十五世坊守)が若坊守として入寺しました。
十五世𣳾信は、ボーイスカウト活動や合唱団、日曜学校-児童強化に努め、筑紫女学園中高の教員として努めた後、母の後を受け保育所園長になりました。更にアソカ幼稚園を昭和38年に設立し、本願寺保育連盟の理事、福岡教区保育連盟の理事長として保育事業の充実に貢献しました。子どものために多くの仏教讃歌を作り、中でも「捧げまつらん」は戦後から今日まで、筑紫女学園の礼拝行事で歌われています。多年に渡り筑紫女学園の理事として学園の発展に尽くしました。坊守良子はりんでん保育園副園長を務め、住職を支えました。
十六世信暁は平成元年より住職となり三十三年間努めました。幼児教育の振興に努め、福岡県私立学校審議会委員を始め、福岡県私立幼稚園協会会長、全日本私立幼稚園連合会副会長、本願寺保育連盟理事などを務めました。筑紫女学園理事長を9年間勤め、本願寺新門様(現ご門主)の欧州真宗会議随行長としてドイツへ赴きました。2021年6月に本願寺参与に任ぜられました。
十六世坊守智子は筑紫野市・西蓮寺より入寺しました。京都女子大学を卒業と同時に若坊守としてまたアソカ幼稚園教諭・副園長として30年、その後はりんでん保育園副園長となっています。

住所 〒819-1116
福岡県糸島市前原中央3丁目6-28
TEL 092-322-2494
FAX 092-324-5182